(Steinwey)ドビュッシー:前奏曲および映像 第1,2集, /アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(p)
使用楽器はSteinway&Sons
数多のピアニストに大きな影響を与えた録音です。チッコリーニは『わが人生』の中で、前奏曲に対し最高級の賛辞を贈っています。
私はアルトゥーロ・ミケランジェリが、演奏解釈の真実の探求に偉大な貢献をもたらしたことを忘れられません。ドビュッシーの『前奏曲集』での彼の演奏は、音の固まりのコントロールや印象派の見地に関して、ひとつのお手本であり、ミケランジェリが音の世界で成し遂げた仕事は前例がありません。
ピアノ自体の整音も素晴らしい。知り合いのピアニストは「楽器自体の音色が美しすぎて、ちょっと卑怯」とまでおっしゃっていました、笑。
間違いなくこの録音は、ピアノの音響美として試金石として今後も残り続けるでしょう。
「その世界に放り出された」感覚になる演奏
ドビュッシーの録音の賛辞には、「絵画的な演奏」「目の前に浮かぶような演奏」など、印象派らしい言葉がならぶことが多いです。
しかし、ミケランジェリの録音はそのような甘っちょろくはないです。
まさに「その世界に放り出された」感覚になります。
例えば「雪の上の足跡」。音が鳴っているのに無音を感じる。しんしんと降り積もる雪の上。踏み荒らされていない雪を踏みしめる「ぎゅっ、ぎゅっ」という自分の足音。自分の吐息の音。
雪の冷たさを確かめようと手を伸ばしてみても、しかしそこには本当の雪も冷たさも無い。 気付けば自分だけがいる。
ミヒャエル・エンデの『モモ』の中に不思議な池の水面に、美しい花が咲いては枯れる一節があります。
これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です。 けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散って沈んでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。
ミケランジェリの録音を聴くと、モモがいたたまれない気持ちになったような、捕まえられない美しさに胸をしめつけられます。
「録音」なので何回でも聴くことができると頭ではわかっていても、過ぎ去る時間を惜しんでしまいます。
音楽が無音を、そして、聴覚以外の五感にまで影響を与えることを体験させてくれた貴重な録音。
私は、この録音を聴いて調律師になろうと決心しました。